今晩、ホピは冷え込んで、夜空の星は冴え冴えと煌めいてます。部屋の中は、家主の計らいで、石炭ストーブの火が赤々してます。
さて、旅の始めにさかのぼり、今回の入国審査4時間の顛末を書いてみたいと思います。
さらに、さかのぼります。2005年秋のことです。
私はシカゴでいったん入国して、そのまま、国際線でロンドンに飛ぶ予定でした。グラストンベリーにその頃居たホピフレンドに会いに行く旅でした。
それが、シカゴで入国拒否の憂き目に遭いました。その理由は、1995年3月に連れ合いの宮田が、カリフォルニアに滞在中、脳内出血で倒れ、その後、96年10月帰国するまで、私がノービザでオーバーステイしていたこと。今更、何を? それまで、何度も入国を繰り返してきたのに!
この時、入国審査事務所の奥にある留置所で一晩過ごし、翌朝、持っていたチケットで関西空港に返されました。ショックはショック! 何よりショックだったのは、その時の扱われ方でした。
靴紐、フードの紐も抜き取らねばならず、身ひとつで留置所に入り、身体検査。服を脱ぐよう言われたけれども、カメラが監視していたのでそれは拒否! 部屋には粗末な二段ベッドに紙のシーツが敷かれ、フェルト化した毛布があるのみ。
ガッチャン、と重い扉が閉められると、流石に氣が滅入りました。天井を見上げると、スプリンクラーが見え、その時、ああ、こういうことか、と納得。
それは、時代が時代で、場所が場所なら、そこから毒ガスが吹き出したのだ、と。そう、アウシュビッツで起きたことをすぐさま連想しました。権限を持つ者によって、お前は右、お前は左、と列に並ばされ、否応なく生死を分かたれた状況を理解した氣がしたのです。
権力とはこういうことか、と。そこには、ひとひとりの尊厳など存在しません。
確かにイリーガルなことはしたけれども、このような罪人扱いを受け、権力とはこういうことか、と知った氣がしたのでした。入国審査官の裁量に任され、日本大使館さえ手出しができない治外法権のセクション!
権限を乱用される可能性も見え隠れする。
フォークもスプーンも付かない、冷え切ったサンドウィチとオレンジジュースとゼリーをポンと与えられ、ますます心も身体も冷え冷えしたのを思い出す。
帰国してから、しばらく立ち直れなかったけれど、北山耕平さんに電話で報告。
そしたら、北山さんの第一声は
「よかったね。インディアンが受けてきたことのほんの一端を経験できたね」
その後、『テツカ・イカチ』出版のため、ホピを訪ねる必要性が生じ、なんとか、苦労とスリル満点さをクリアして、パスポート、ビザを取得。そして、9年ぶりでアメリカに入国したのが2014年。その後、毎年一回入国してきたのでした。
今回、大統領が彼の人となり、予想通り、入国審査はこれまでになく厳しくなっていた!! 別室は満員。半分は中近東出身とおぼしき人々。あと半分はおおよそ中国人、韓国人、そして、東欧、ロシアとおぼしき人々。
延々と待たされ、かつての経験を思い出してきて、さすがに氣も弱ってきた頃、名前を呼ばれた。オフィサーはなんとなく和か。簡単な質問だけで、すぐにハンコを押したパスポートが返されて、ほっー、と息をついた。
扉を押して無罪釈放!!
バゲッジクレインにいた末端の女性係官が、私を見て、「長いこと待たせて悪かったわね。(ねえ、わかるでしょ、Tのおかげよ)あなたの荷物はあそこよ。中国人なんか、みんな帰国させられてるわよ。ほんと困ったわ。あなた、よかったね」と市民感情の言葉をかけてくれた。
今回は、アメリカンエアといういちばんリーズナブルな航空会社を選んだせいか、到着したのはLA空港の中でもいちばん端っこだったかもしれない。私たちの通関の場所は、中国、韓国人がとても多く、それが、4時間待ちのひとつの原因になったかもしれない。ともかく、留められる人がすごく多いし、威張り散らす係官の威圧感が半端ではなかった。
今のアメリカ事情を憂いた初日でした。